think01
『いのちの循環 座談会』
2025年大阪・関西万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」。大阪・関西万博「Co-Design Challenge」プログラムの一つに選定されたこの「想うベンチ」プロジェクトのサブタイトルは、「いのちの循環」…
think04
#大阪の森
世界有数の森林国である日本は、国土面積の約3分の2を森林が占めています。水をたくわえ、空気をきれいにし、生き物を育む森は、私たちの生活になくてはならないもの。“大阪の森”はどのように人と関わり、どのような変遷をたどってきたのか、大阪府森林組合の代表理事組合長・栗本修滋さんに、お話を伺いました。
約50年にわたり、森林の育成・整備・再生に携わってきた森のスペシャリスト。大阪府森林組合の代表として、また高度な専門知識を持つ森林部門の技術士として、先人からの教えと自らの経験を伝承しながら、次代につなぐ森づくりに尽力している。
おそらくみなさんが想像していらっしゃるとおり、大阪は決して森が多い地域ではありません。森林面積は全国一小さくて、約5万6000ヘクタール。それでも、府全体の約3分の1が森林です。北に北摂山地、東に生駒山地、そこから南にかけて金剛山地、和泉山地が連なり、いずれも尾根を越えた先は隣の都道府県になります。つまり、大阪は森(山)自体が県境になっているのです。
他の地域とは異なる大阪の森の大きな特徴は、人々が暮らすまちと近い距離にあることです。森の資源を運んだりするのに便利がいいので、大阪の森はまちの人たちのニーズに応じて、暮らしに必要なものを供給するために多重的に利用されてきました。
戦前から行われてきたのは、薪づくりと炭づくりです。都心に近い地域は薪、奥地では軽くて運びやすい炭づくりが盛んだったようです。ですから、当時の里山は、薪や炭に向いているコヌギやコナラを中心に森が整備されていました。かつては高槻あたりでも牛に引かせて薪や炭を淀川まで運び、淀川で船に乗せ替えて大阪市内まで輸送していたと聞いています。
また、植物を田畑にすき込んで肥料にすることを「緑肥(りょくひ)」といいます。山を持たない集落の人たちは、所有者にお金を払って山の利用権を確保し、田んぼ用の緑肥や、生活に必要な薪を手に入れていました。
そのほか、地域によってもそれぞれの森の特徴があり、和歌山県に接する南部では、同じ炭でも備長炭の原木であるウバメガシがよく採れたと聞いています。松林のある地域ではマツタケを採取し、北部ではクリの栽培もしていました。丘陵部では孟宗竹(もうそうちく)があって、タケノコを生産していました。
じつは、山の森林面積は昔からさほど変わっていません。大阪はもともと森が少ない地域なんです。ただ、森林面積が少ない分、山の資源には限りがあります。生活に必要な薪や炭をつくるために木が切り尽くされ、しかも、戦時中は松の根の油を飛行機の燃料にしたり、戦時物資としても多くの樹木が使われたため、一時は山から木がなくなってしまったところもありました。木がなくなり「はげ山」になってしまったのは、主に泉州の北のほうの山です。このあたりは花崗岩質で土がもろく流れやすいため、遠くから見るとまるで雪が積もったように白い岩肌がむき出しになっていたそうです。
そうです。一度土がなくなり木が生えなくなった山を復元するのは、本当に大変なこと。「筋工(すじこう)」と呼ばれる工法は棚をつくって土を入れ、そこに苗木を植えていくのですが、当時は林業の人だけでなく労働力を総動員して、人力で山の上まで土を運んでいました。そうやって、やせた土でも育ちやすいニセアカシアやヤシャブシといった木を植えたり、少しでも土壌があるところにはアカマツやヒノキを植えたりして、山に緑を復活させていったのです。
戦後ははげ山になってしまったところだけでなく、戦中に伐りすぎた林を復旧させるため、林業を家業とする人たちはボーナスもはたいて新たな木を植えて育て、管理したと聞いています。こうした先人たちの苦労のおかげで、今も大阪には戦前とほぼ変わらない面積の森が存在しているのです。
戦後、山を復旧させるために植えられたスギやヒノキは、ビルを建てる際に足場として利用される間伐材から始まり、一定程度成長すると住宅に使われるようになります。高度経済成長期には住宅需要の高まりを受け、河内地域の南部や泉州地域の北部では、林業が活況を呈していました。
一方、工業化が進む社会の中で、新たな収入源を求めて働きに出る人もいるなど、林業離れが進んでいったのもこの高度経済成長の時代です。それまでは薪や炭も変わらず生産されていましたし、マツタケやクリの採取も行われていました。
今後も林業を継続したいと思っている人たちは、生活を維持するためにシイタケを栽培したり、より付加価値の高い炭をつくったり、住宅への需要が多いスギやヒノキを丁寧に育て出材したりたりと、まちの多様なニーズに応えることで森を存続させてきたのです。
なお、1970年の大阪万博(日本万国博覧会)の前後には、生駒山地を中心に「府民の森」が多数つくられました。府民に緑を供給しようと、大阪府が整備した自然公園です。都市の中につくられた公園ではなく、山の中で本物の自然が味わえるのも、まちと森が近い距離にある大阪ならではの人との関わり方といえるでしょう。
確かに、内装材やプレハブ住宅には、早くから国産材があまり使用されなくなりました。でも、大阪では今も在来工法を行っているところがあり、柱などには国産の木が使われています。しかも、やせた土地に植えられた大阪産の木は、年輪幅が狭くて均質。節をなくすために枝打ちをするなどして丁寧に育てると、木材としては非常に上質なものとなり、他の産地より高値で取引してもらえているのが現状です。
しかしながら、一度台風などの被害を受けると、木が倒れないまでも大きく揺れただけで中の繊維が切断されてしまうなど、木材としての質が下がってしまいます。近年は気候の変化によって、台風などの影響を受けることが多くなってきました。これからはスギやヒノキ林の間に緩衝となる広葉樹の林を形成しながら、災害に強い森づくりをしていく必要があるでしょう。
森に携わる人たちは、「地域の中にある森」という意識を強く持っています。ですから、地域の人々の暮らしに役立つ利用法を考えて森を育てるとともに、災害に備えて危険な木を伐採したり、水や空気を汚さないよう管理するなど、地域社会に迷惑をかけないための取り組みを常に心がけています。そういう意味では、林業は農業とも深く結びついています。農業を大切にする社会では、森がきちんと維持・管理され、環境が保たれているのです。この意識がある限り、これからも大阪の森は守られていくでしょう。
最近はよく、「サステナビリティ(持続可能性)」という言葉を耳にしますよね。林業では昔から、「保続培養」ということが法律に定められています。つまり、「保ち続けることを認識して育てなさい」ということ。まさしく今でいう「サステナビリティ」です。これこそが、先人から深く根付いている林業の精神なのです。
これまでお話ししたように、大阪の森はまちに近いことが特徴で、都市で暮らす人々のニーズに合わせて、緑を配置したり、生活に必要なものを供給したりして存続してきました。どんなに工業製品が増えても、天然の木にしかない温もりや風合いは不変のもの。また、暮らしの近くに緑があることで、まちに鳥が飛んできたり、森は知らず知らずのうちに私たちの生活に彩りを添えてくれています。これからも人に寄り添い、人と触れ合うことで、森が発展していくことを願います。
現在、一部の地域では具体的な取り組みも行われていて、若い人たちが森林ボランティアに来てピクニックがてらお弁当を食べたり、子どもたちと虫とりを楽しむことができるような森をつくろうという試みがスタートしています。今後は、こうした新しい森の使い方による都市の人たちとの関わりにも期待しています。
think01
2025年大阪・関西万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」。大阪・関西万博「Co-Design Challenge」プログラムの一つに選定されたこの「想うベンチ」プロジェクトのサブタイトルは、「いのちの循環」…
think02
”大阪”とひとことで言っても、それぞれの地域があり、文化があり、そしてなによりそこに暮らす人がいる。ひとりひとりが語る「私にとっての大阪らしさ」とは…
think03
海に接しない大阪平野の三辺を取り囲んでいる森は、この地のひとたちにとってどのような存在なのか。大阪の森をフィールドに活動する方々を訪ねました…